ブルータス (1984年男のスタイルブック春/夏号)
『伊達男たちの生活美』
はっきり言ってしまおう。イイ男たちは忙しいのである。各人各様その生き方は異なるが、彼らに共通するのは人生を満喫している点。仕事に趣味に全力を傾けている姿は自ずとその人に風格をもたらしているものだ。そんな彼らのスタイルをちょいと覗かせてもらった。
野口伊織(41歳)
ビートからメカへ、メカから光へ、“猫の目”的好奇心は果てず。
吉祥寺という所を、この男は“町”から“街”にした。
もちろん、近鉄や東急やパルコなくしては今の吉祥寺はあり得ないが、この男がそれよりも前に〈赤毛とそばかす〉とか〈アウトバック〉というような店を出していなかったら、果たしてこの街の中途半端なロケーションで今ほどの繁栄を呼んだとは思えないのである。
ジャズを聴く、そして演る。写真の腕はプロはだしで、持っている機材はそこいらのプロを完全に上まわる。アンティークものにも目がなく、気に入った時計などを見つけると矢も楯もたまらない。オーディオには一家言持っていて、自分の店の音が気に入らないとなれば、採算を度外視しても徹底的に手を加えてしまう。車は日常の足になればいいなどと言いつつ、並の人間が一生涯かかっても買えないようなものを次々と乗り換える。女遊びでもしているのかと思うと、井の頭公園をマラソンランナー並みの猛スピードで走り回っているし、かと思うと街角の小さな隠れ家にこもって新歓の雑誌を読みふけっていたりもする。飲み食いに関しては全き鯨飲馬食、「俺ってものの味がわからないんだよ」と言いながら、あたかも内蔵の存在などないかの如くである。
野口氏自身によれば、最初にジャズがあった。ジャズが好きで好きで、憧れのミュージシャンを自分の手で捉えようと写真を始めたのだし、耳を満足させるためには優れたオーディオが必要だった。もともとメカニズムには興味があったから、どちらも手ごたえのある対象となってくれた。写真をやっているうちに“光”がとても気になり始めた。それが店のインテリア・デザインのアイディアに結び付き始める。光がすべてだ、といつの頃からか信じるようになって、映画を見ても絵を眺めても美術館に行ってもホテルに泊まっても、カクテルを飲みながらグラスを見つめても、日増しにその確信が強まるのだそうである。
これはもう、生き方そのものがインプロビゼイションだとしか言いようがない。決して今流行の予定調和の世界ではないし、かといって病的なパラノイアからもほど遠い。危なっかしそうで意外なほど粘り腰だし、理屈が通っていそうでその実かなり感覚的なのである。御本人は中途半端だと嘆きはするものの、どの世界でもかなりの通と互角に渡り合える密度の濃さを持っている。単なるテクニックだけのインプロビゼイションならば、いずれボロが出てくるものだ。ボロを出すようなことには、ハナから首をつっこみはしない、という潔さもこの人はちゃんと持っている。要するに持って生まれたノリ、その質がいいのだ。
優れたジャズは、規制とか抑圧というものを決して持たない。そのくせデタラメなわけではなく、おっとりし過ぎてインパクトがなくなるわけでもない。だから、強引な規制の下に構築された音楽よりずっとしなやかで腰が強い。その上ユーモアも含んでいるし色気もある。そして、何よりも言葉や理屈で正確に表現することができないのが特徴だ。こう考えれば、野口氏の生き方そのものが優れたジャズのように見えてくる。
自分の中で突然につき上げてきた衝動をパッとつかんで、しばらくの間はそれを形にしようとやっきになるのだ。そして、ある形が出来上がってしまうと、今度はそれを自ら壊してまた次の形を作ろうとする。一見、何やらシジフォス風で悲しい人生のようだが、ジャズの醍醐味はそこにあり、それが楽しめない人は別世界で生きりゃいい。
吉祥寺が片田舎の“町”からにぎやかな“街”へ変わりつつある時、野口氏はやりたい放題“ジャズ”をやって大成功を収めた。どの店も、内装から客層からまったく違うというのに、すべてが当たったのである。今、彼は新しく渋谷に進出して、再びスケールの大きい“ジャズ”に挑み始めているかのようだ。そのあかつきに大事業家になったとしても、例の猫の目のような好奇心は全く衰えを知らないに違いない。
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