すり減った階段を下りて扉を開くと、アメリカの裏街の酒場に迷い込んだような錯覚に陥った。
打ち放しの天井に走る鉄骨、レンガの壁、アンティークの数々。極めつけは、カウンターそばの壁に記された落書き「GROOVY」−。
レッド・ガーランド・トリオの名盤『GROOVY』のジャケットを、そのまま再現しているのだ。ジャズファンの心をくすぐる仕掛けに、思わずにやりとさせられた。
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吉祥寺に「Funky」を構え、ジャズ喫茶ブームの火付け役として知られる野口伊織(1942-2001)が、ライブハウス「SOMETIME」を手がけたのは、1975年だった。
妻の満理子(49)が振り返る。「お気に入りのシカゴの街並みと、映画『ウエスト・サイド・ストーリー』の雰囲気。頭の中に、明確なコンセプトが出来上がっていたそうです」
野口のスケッチを基に工事は始まったが、広さ約百十平方メートルに及ぶ店を図面なしに築くのは不可能。そこで設計に加わったのが、福井英晴(60)だった。
野口は、一段高いステージを設けると主張した。しかし、福井は、頑として反対した。
「ジャズは、客とコミュニケーションを取りながら即興を繰り広げていく音楽。だったら、演奏者と客の間に隔たりはいらないはず」
結果として、平地のステージを、一段高い客席が囲む構造にした。ミュージシャンと客の目線の高さは、あくまでも同じ。これこそがSOMETIMEの最大の特徴となった。
ジャズ評論家の岩波洋三(70)は、「SOMETIMEの開店により、ジャズの拠点は新宿から吉祥寺へと移りました」とその意義を強調する。
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「料金が安いから、学生も気軽に入れる。ジャズファン限定の店舗でもありません」。店長の宇根祐子(39)はそう話す。
九六年、ジャズシーンに一石を投じるライブが行われた。人気絶頂にあったピアニスト大西順子(36)が提唱した「ジャズ・ワークショップ」。若手が集まり、半年以上に及ぶ貸しスタジオのセッションで作り上げたオリジナル曲を発表する。演奏が評判を呼んで急きょレコーディングが決まり、翌年、アルバム『THE
SEXTET』が誕生したのだった。
「若者が多いので反応が速い。だから実験的なこともやりやすい。順子とそう意見が一致した」。今は一線を退いた大西の気持ちを、ドラマーの原大力(44)が代弁する。
おしゃれで、温かい。決して敷居は高くない。この地の雰囲気を凝縮したような空間。そこに、”吉祥寺を町から町へ変えた”と言われる野口の、深い思いを感じずにはいられない。
(敬称略)