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追悼文集

自由な魂   安部 啓輔(武蔵野FM)

 むさしのエフエムという、吉祥寺の小さなラジオ局に勤めたのがご縁の、野口さんとの出会いでした。吉祥寺秋まつりの御輿を担いでいた野口さんは、法被姿のまま私の方に歩いてこられると、「野口です」と、あのシャイな笑顔と口ぶりで、気さくに、しかし、ていねいに、あいさつをして下さいました。さわやかな秋の日でした。
 その後、ゲスト出演して下さったことが有り、私のつたないインタビューにも、真剣にお答え下さったのですが、このたびのことで、もう一度、その時の放送を聴きたい旨、聴取者の方々からご要望があり、放送したところ、奥様をはじめ、多くの方々からご愛聴たまわりました。
 放送の中で野口さんは、「街づくりというのは、行政とか、誰かがやろうとしてやるものでは無くて、自然にできていくものです」と、おっしゃっています。
 銀座育ちの野口さんにとって、初め、この吉祥寺は、途方もない田舎にみえたそうですが、そのうちに、なんともいえないこの街の魅力を再発見されます。その魅力こそ、私には、国木田独歩の謂う「自由」だったように思えてなりません。
 人々の心を、とらえて止まない野口さんのお仕事の数々。それは、なにより、そこから感じ取れる自由さに、人々が感応しているのだと、私には思えるのです。
 そして、そうであれば、私が、放送の勤め人であるにとどまらず、人間としても、すこしでも、偲ばなければいけないのは、野口伊織という思想家の、自由のたましいであるし、それを、声高でも、大上段でもなく、静かに教えてくれた野口さんに、勝手に、兄のような、思慕を感じています。




強引な話  井上明彦(蔵)

あれは、かれこれ13年も前になるだろう。
吉祥寺サムタイムに惚れ込んでいた私は、当時店長をされていた小山さん(現本間夫人)にご紹介頂き、伊織氏のP.Oであるライオンズマンションに出向いた。いわゆる、就職の面接である。
 初めてお会いした時は、何かの執筆中であった(多分スィングジャーナルのコメントか何かだったのだろう)。都心を含めて十数店舗お持ちの大社長だから、現役ばりばりの熊みたいな人を想像していたのだが、意外にも穏やかな方だったのでびっくりした。
伊織氏は言った。「小山店長から聞いてるよ。サムタイムに入りたいって?」どぎまぎしている私に間髪をいれずに続けた。「佐川急便やってたんだ。どのくらいいたの?」そう、わたしは20代前半で店を持ちたいと思い、その2、3年後資金稼ぎに佐川急便に入ったのである。
 「3年半です」何の躊躇もなくこう言った後に、「へぇー、よくもったね〜」と少し驚いた様子だった。
私も間髪を入れずに言った。「給料も何も入りません。働かせて下さい!」今考えてみれば無茶な話である。もし伊織氏が悪徳経営者で、「よし気に入った!向こう1年は丁稚奉公だ!」なんていわれたらどうだったろう。当時ワンルームの家賃だけでも7万はしたから、掛け持ちで3つくらいバイトしていたかもしれない。しかし伊織氏は私の話を聞いちゃいないで(あとから伺った時はお聞きになってらっしゃったみたいだが...)、「将来は自分で店やるつもりなの?」といきなりカウンターパンチを食らわせた。「いいえ、私はこの会社にどっぷりと骨を埋める覚悟です。」後から思うと、嘘も方便、こう言えばよかったのだが、そこは馬鹿正直が災いしてか「はい、そのつもりです」思わず口がすべってしまった。ああ〜っもうおしまいだ〜。
 伊織氏は淡々と言った。「そう、それは良かった。目標を持っている人間の方が仕事するんだよねー」ほっとしたのも束の間、「あのねー、実は今、和食の店を造っている最中で、とっても斬新な店なんだ。銀座の懐石料理店からベテランのホールマネージャーと料理長を引張って来るんだ。サムタイムもいいけれど、すごく接客の勉強になるよ。それになかなかオープンスタッフとして経験するのも貴重だしね」とても言葉巧みだった。
しかし音楽をずっと演ってきた私には、サムタイム以外は眼中になく、当時の小山店長のサービスもとても魅力的だったのでその話をお断りしようと思うや否や、「そうだ。今からちょっと見に行ってみないかい?」ともう上着を羽織り出していた。もうこうなったら、伊織氏のペースである。しぶしぶとマンションを後にして、東急デパートを右折した頃には「えっ!こんな寂しいところにあるんだ」とだんだんと不安になってきた。
 100Mくらい歩き「このビルの4階なんだ。エレーベーターがないんだけどね。」とさらりと言いのけた。3階あたりまで登るとその不安は頂点に達した。「俺は和食の店に入りたいんじゃない!」しかし、4階に着きその扉を開けると一変した。「何だこの店は!」
天井が10M近くもあり、打ちっぱなしの壁に黒い梁。コの字になった2つのカウンターはスポットライトに照らしだされ、妖しく浮かびあがっている。そう、ここがあの繁盛店、吉祥寺「蔵」だったのである。私が口をぽかんとしていると、伊織氏「あれー」と言い放しつつサッサと中に入ってテーブルの一部を指差し「ねぇ、ここどうなってるの?」と当時独立される前の米丸さんを呼びつけたのであった。
 伊織氏はしばし工事の話に夢中になり、私の存在は眼中にないようだった。今思うと伊織氏のこういう場面がかなりあってとても懐かしく思う。と同時に、『今感じたものを今表現することの大事さ』をいやと言うほど見せつけて頂いた。とても感謝している。
 伊織氏は話が済んだあと、米丸さんに紹介してくれた。「今度、この店で働く井上マネージャーだよ」えっ!強引すぎる!と思う否や「あれ、まだ違ったかな?」とおどけて見せた。こういうところが伊織氏はとても上手い。強引のようでサッと退く。褒めていてから誤りを指摘する。伊織説法とでも言おうか。
 そしてこの伊織氏の最後の一言でとどめを刺されたのである。「まあ、向かないようだったら、そのときにもう一度考えればいいんだし.....」
 かくして晴れて(?)平成元年7月には吉祥寺「蔵」の初舞台を踏み、その半年後にはホールマネージャー、半年後店長へ、2年後には和食部部長となったのである。その頃には「サムタイム」の話しは遠い過去の、いい思い出となっていたのである。
 話せば伊織氏との思い出は尽きず、私だけでも何万字も使ってしまうだろう。しかし、ひとつだけ悔やんでいることがある。ジャズギターを勉強している今、もう一度お手合わせ頂きたかったことだ。随分前に六本木のライブハウスで一度セッションさせて頂いたのだが、当時私は、ばりばりのロッカーで、何となく伊織氏との音と不協だったのを覚えている。あわよくば一度、伊織氏と茂串氏とトリオを願っていたのだが悔やまれて仕方がない。
 伊織さん、私がそちらへ出向いた際には、お手合わせ願います。ギブソンのフルアコとスタンダード集を2、3冊、それと八海山の純米大吟と下仁田のコンニャクを忘れずに持参しますよ。
 でも伊織さんに言われちゃいそうだなー。「あのね、井上さー、スィングしなけりゃ意味がないんだよねー」って。




野口伊織氏との出会い  岩波洋三(ジャズ評論家)

思い起こせば古い話で、1962年頃だったろうか。スイング・ジャーナルの編集部にいたぼくのところへ一人の若者が現れ、野口伊織と名乗った。
なんでも吉祥寺に「ファンキー」というジャズ喫茶を開くのだが、どんなジャズ・レコードを揃えればいいかわからないので、ベーシックなアルバムを200枚ほど選んでほしいという。
ぼくは2.3日後にシュワンのカタログに○印をつけて彼に手渡した。この200枚のアルバムにはソニー・ロリンズの「サキソフォン・コロサス」やマイルス・デイビスの「バグス・グルーヴ」といった定番から、それこそ「ファンキー」という店名にぴったりのホレス・シルバーの「スタイリング・オブ・シルバー」やソニー・クラークの「クール・ストラツテイン」が入っていたと思う。店が開店すると、何度か店をたずねたが、研究熱心な彼は次々に新譜を買い足し、ぼくが聴いていない新譜もずいぶん購入していた。
当時はジャズの輸入盤の枚数は少なく、店同士で競争して買っていたし、やがてみんな中古で珍しいものを揃えるようになった。
野口伊織氏も一時は希少盤をよく集めていたし、オーデイオそのものも凝っていた。
また、いっぽうで趣味のアルト・サックスも吹き、吉祥寺駅のそばのクラブで演奏するから、聴きに来てよといわれ何度か聴きにいったことがある。
その頃、ときどき彼と共演してブルースを歌っていたのが、現在キャブ・レコードを経営している佐藤マサノリだった。
ぼくは65年にスイング・ジャーナルの編集長をやめてフリーになったが、その後もよく一緒に吉祥寺を飲み歩いたものだった。
飲んだ日はバスや電車で帰った記憶がないから、たぶんタクシーで遅く帰ったに違いない。「柿の木」や「水瓶座」などへよく飲みにいった。
「水瓶座」は満理子さんとのデートの場所のひとつだったようで、「岩波さん、今夜飲みにいこう」と誘われて出かけていくと、たいていその待ち合わせの場所には満理子さんがいた。
ぼくはどうやらデイトのだしに使われていたようだが、楽しく飲めれば、だしでもなんでもいい性分なので、3人でよく楽しく飲んでいたのを思い出す。
「ファンキー」も歴史が出来、おなじみの客もふえてきたので、70年代に入ると、月一回のレコード・コンサートをはじめることになり、ぼくが解説をやることになった。
このコンサートには、ジャズ関係者が沢山集まるようになった。
べつにぼくのレコード・コンサートを聴くのが目的ではなく、終わってから別の場所で行うアフター・アワーの飲んだり、食べたり、だべったりの会を楽しみに集まるのである。もちろん座長は野口伊織であり、ぼくのほか鍵谷幸信、佐藤秀樹、岡崎正道、茂串邦明、岡村融、矢野泰三、米田康久、そして時にはDIGの中平穂積も加わり、午前1時、2時までもバカをいって騒いだものだった。その頃はみんな若くて元気があり、この集いからジャズ界の新しいアイデイアや企画も生まれたし、吉祥寺は新宿とともに、ジャズの中心地であった。
その後、新宿のDIGでも同じように鍵谷幸信のレコード・コンサートが月1回行われるようになり、同じようなメンバーが集まり、野口氏もその時は吉祥寺から新宿へよくおしかけてきたものだったし、植草甚一もときどき顔を見せた。最近は、こういうにぎやかなジャズ・セッションもなくなり、鍵谷幸信も植草甚一も亡くなり、さびしくなってしまった。
そのうち、昔の仲間を集めて「野口伊織を懐かしむ会」をやりたいものだとおもっている。




「キツーイ!」言葉が今も聞こえる  宇根裕子(Sometime)

伊織さんの思い出を!ということだがはっきりいって、彼が逝ってしまったという実感はまだない。毎日顔を合わせて仕事をしてきた訳ではない。ということが大きな理由だと思うが、今でも「おはよー!野口だけど…」って、電話がくるような気がしてならない。 仕事でいい結果が出せたときなどは”誉められたい”っていうより、「どうよ」なーんて彼に対して思っている自分がいる。仕事の上では彼のビジョンと現場の意見が食い違った時など衝突もした。お互いの怒りのレベルがグングン上がっていくのを感じながら、でもどちらも引くことができない。よく回りにいる人たちをビクビクさせていたものだ。
 伊織さんはとてもパワフルな面もあって、ある日「下水が詰まった!」と連絡を入れるとスグにとんで来て、TOKIO KUMAGAIの綺麗なシャツの腕をおもむろにまくり上げ、排水口に手を突っ込んだりする。
そんな姿が大好きだった。一歩仕事を離れたら”笑顔がいっぱい”の伊織さんしか浮かばない。
 音楽活動をやっていた頃、私のライブに満理子さんと2人で来てくれたり、店に黒人のJAZZ人形が欲しい!といったら、忘れた頃に「小さすぎるからこれは宇根ちゃんに」って持ってきてくれたり、意外に?優しかった。
 結果が出せない時に、天候のせいだとか言い訳をしようとしている私に「Sometimeは、そんなことに左右される店じゃないからね」って、彼のキツーイ!言葉が今でも聞こえてくる…。




吉祥寺の食と文化を創った人  川崎正胤(元第一ホテル東京シーフォート総支配人)

私が「吉祥寺第一ホテル」におりました頃、街で評判になっている新開店のお店や人気店といわれるスポットには、ウォッチをかねてときどき出掛けていました。評判や人気のファクターである「食材、調理法、味、器、接客マナー、雰囲気、客層」といったことを一通りチェックし、評判や人気の理由を私なりに分析していたものです。
 不思議なことに、私がここぞと見当を付けて出掛けるお店には、たいてい野口伊織さんご夫妻もみえていて、例の人なつこい笑顔で少し照れながら「イヤー、またお会いしましたね!」などと、お酒の続きが始まったものでした。
 お会いするときはいつもお酒が入っていて、かなりいいご機嫌だったので「洒落た酔っ払い」というのが、今でも変わらない伊織さんの印象です。たぶん、私と同じような来店目的もあったとは思いますが、観察しているという雰囲気はまったくなくて、奥様とご一緒にお酒とお店の雰囲気を楽しんでいるようでもありました。
 野口伊織さんといえば、吉祥寺だけでも10数店のオーナーであり、どの店も彼自身のプロデュースによるもので、斬新なコンセプトをもち、すばらしいインテリアで、傑出した造形感覚が細部にまで行き渡っているということは評判でした。
 さらにいえば、どの店も繁盛店で、これは経営感覚も並みのものではないと感じさせていました。伊織さんは私が、初めてその噂を耳にした頃からすでに、いわば「伝説の人物」であり、「カリスマ」でもありました。
 かつての吉祥寺といえば、文化人が多いとか、井の頭公園があるといった程度しか特徴のない、どこにでもよくある「地味な武蔵野の町」であったといいます。その吉祥寺が、これほどまでに進化し、たくさんの人が集まる魅力的な街になったのは、ひとえに「野口伊織という才能」が存在したからだと多くの人たちから聞かされていました。
 私にもそんな「野口伊織=吉祥寺の食と文化を創った人」伝説は、十分にインプットされてはいました。ですから、お会いする前は、それほどの人なのだから、きっと辺りを払うような、威風堂々とした方なのだろうという勝手な想像をしていたものでした。
 ところが直接お会いするご本人は、そんなことを少しも感じさせない、少年のようなナイーブさをもった「洒落た都会人」という印象だったのは意外でした。しかし、そうは見せながらも、彼から発光される一種の”オーラ”は、彼が「ただものではない」ということを瞬時に、私に理解させるに十分なものでした。
 それは、本人が望むと望まざるにかかわらず、人の目を彼のいる場所に釘づけにしてしまうような強烈な存在感をアピールしていました。
 そんな伊織さんがいた、思い出深い吉祥寺を私もこの6月に去ることになりました。
これからは吉祥寺の街を思い出すたびに、伊織さんの印象と重なってくることでしょう。




マイルスを教えられた  後藤雅洋(ジャズ喫茶 四谷イーグル)

僕がジャズ喫茶をはじめた1960年代、既に「ファンキー」はジャズ喫茶の名店として、ジャズファンの間に名を轟かせていた。僕のような駆出しにとっては「ファンキー」も、野口さんも雲の上の存在だった。70年代に入ってからのことだったと思う。ようやくジャズ喫茶関係者との付き合いもでき始め、何かの集まりで野口さんに初めて会った。その席で、彼が学校の先輩であることを知り、こちらの一方的な思いながら、一気に親しさが増した。
 それから、ジャズのこと、店の経営のこと、オーディオのことなど、数えきれないほど野口さんに教えてもらったが、一番大きかったのはマイルスのことだ。
 当時、ジャズシーンでは”エレクトリックジャズ”の評価を巡ってジャズファン、評論家、ジャズ喫茶店主たちを巻き込んだ大論争が起こっていた。僕なんか右も左も分からないながら初心ジャズファンに有りがちな保守性を発揮し、エレクトリック・マイルスには懐疑的だった。
 それに野口さんが鉄槌を下してくれた。「後藤ちゃん、ちゃんとマイルス聞かなくちゃダメだよ、大音量で」。言われた通り店に帰り、できる限りの音量で出たばかりのマイルス・デイヴィスのアルバム「アガルタ」を繰り返し聞いた。
 見えてきたのだ。マイルスの音楽が。今、僕がジャズ喫茶を続けていられるのも、この時野口さんにジャズの根っ子を教えてもらったからなのだ。本当に凄い人だった。




思い出すのは…  菅原正二(ジャズ喫茶ベイシー)

 伊織ちゃんがぼくにいった言葉で、断片的によく思い出すのに「写真は露出だよ、露出!」というのがある。「レンズは何だって同じだよ」と、これに続いていた気がするが、写真を撮る時「写真は露出だよ」といったあの時の伊織ちゃんの言葉が今でもふと頭をかすめるのだ。
「ベイシーちゃん”S”に乗ってるんだって!?今度、運転させてヨ!」と伊織ちゃんがぼくにいったのも妙に思い出す。BMWを乗りこなしていた伊織ちゃんが、ぼくのダットサンフェアレディ−2000”S12”311」を運転することは遂になかったが…。
 満理子さんと結婚式を挙げた時、
「新婚旅行はどこへ行くの?」とぼくは、ごく平凡な質問を伊織ちゃんにした。
伊織ちゃんのことだから豪華客船で地中海一周とか…あるいは世界一周旅行にでも出掛けるつもりだろうといちおう訊いてみた。そしたら、
「明日ベイシーに行く」と答えた。
 冗談かと思ったら翌日、伊織ちゃんと満理子さんは二人でほんとにベイシーにやってきた。
 ま、後日別口で大規模旅行に出掛けたにせよ、である。結婚式の翌日の、正真正銘の”新婚旅行”は確かにこの二人はベイシーにきた。
 この事は、野口伊織を語る上で、決して無視できない一事であると、ぼくはそうとらえている。その時、伊織ちゃんが持参したライカの「M3」で撮った、スピーカーをバックにした「記念写真」が今でも手元にある。モノクロ、ノンストロボで撮った、その写真は、露出もバッチリ!であった。
「明日、ベイシーに行く」−−これも伊織ちゃんの言葉のひとつだ。(セリフとルビ)

PS−伊織ちゃんだって、ぼくのこと、たまには思い出していたと思ってます。




うさぎのダンスとイオリズム  高梨義則(レモンドロップ)

小生が伊織さんと初めて逢ったのは、20年前知人の紹介で吉祥寺南口のレモンドロップ完成まぎわの工事現場でした。
待ち合わせの時間が過ぎているのになかなか現れず、しばらくすると大きなショルダーバックを抱えた40前ぐらいの酔っぱらいが「ヤー、ごめんごめん」と手をふりながら近寄ってきました。
「野口でーす・・・・」ここから、ケーキ屋ストーリーは始まったのです。小生もまだ26くらいでした。
それから、1週間ほどたった深夜、電話で起こされた小生の耳に飛び込んできた声は、「今、三鷹の寿司屋で飲んでるんだけどちょっと来れないかなァ?」という誘いでした。小生は西多摩に住んでおりちょっと行く距離でもなかったのですが、何となく甘い誘いに「わかりました、すぐに行きます。」と答えてました。「じゃあねー」そして電話が切れました。
店についてさんざん盛り上がったことは言うまでもありません、初めて逢ったときは違い、意気投合してしまい、小生も自分の店をやっていたのですが、この人と一緒に仕事をしてみたいという強い意志を感じ、店をたたみレモンドロップを引き受けることにしました。
伊織さんとは、毎日のように仕事が終わると飲みに行っていました。
夜7時頃になると、「今???にいるから良かったらこない?」「じゃあねー」このフレーズが仕事の後に何とも心地よかったことを覚えています。
たいていは、当時のハムエッグクラブ、西洋乞食、チャチャハウス、サムタイム、ココナッツグローブ等をめぐり、吉祥寺の町をあっちこっち歩き回ったものです、酔いもまわって気分が良くなると伊織さんはおきまりの「ぴぴっぴぴぴぴぴうさぎのダンス」を歌いはじめます。その姿と鼻歌が妙に今でも印象に残っています。あれから20年あまり尊敬したり、喧嘩したり、意気投合したりエピソードも語り尽くせないほど沢山あります。
その伊織さんが今はこの世にいないなんてまだ信じられません、きっと小生の心の中にイズムとリズムを刻みこんで突然消えて行ったからだと思います。
また、いつか一緒に仕事をしましょう。ありがとう伊織さん。




「伊織王子さま」は女の子の憧れだった  高橋秋子(サムタイム初代店長)

 私がファンキーでアルバイトをしていたのは、どのくらい昔のことだったでしょう。つい昨日のことのようでもあり、ずっ〜と遠い過去のことのようでもあります。
 あの頃はみんな、若くて、気まぐれで、なかには実現不可能なドデカイ夢を見ている人もいたりしましたっけ…。群れたり離れたりしながら、だんだん気心が通じる人たちが引かれ合うようにして、いつの間にかご町内仲良しグループが形成されていきました。
 毎日が退屈なようだけど、時間に追われているようでもあり、何だかわけがわからないうちに、気がついたら時間が過ぎ去っていました。それは、まるでアメリカングラフティーのような、今思えば「青春」そのものでした。いつ思い出しても楽しくて懐かしくて、あの時代が、今日の私という存在とキャラクターを形成するのには、必要不可欠な時間だったような気がします。毎日のさまざまな出会いや出来事も全部、あの日、あの頃と無縁にはあり得ないと思えるのです。
 ファンキーにいる時間は楽しくて、働いている気がしたことはありません。お休みなんかゼ〜ンゼンいらない!という感じでした。週1回のお休みの日も、家にいると何だか落ち着かなくて退屈で、よく「お店に行きたいなあ〜」という気持ちになったものでした。 当時から伊織さんは、超カッコよくて、とくに「お洒落してる」という雰囲気を意識させないのに、いつも何だかビシッと決まっていました。さり気ないジーンズとTシャツスタイルだったとしても、他の人とはちょっと違っていて、まるでファッション雑誌のグラビアから抜け出してきたように見えました。たんに、ハンサムとか美形という男の人は結構いますが、何を着てもサマになる、絵になるというのが伊織さんならではでした。
 初めて見かけたときから「なんてステキなんでしょう…」と、ちょっと胸キュンでしたが「伊織王子さま」は、雲の上の人でしたから眺めているだけで嬉しかったカワイイ私でした。昔の女のコはホントに純情でした。純情なんて今は死語の世界ですが、たくさんの女のコたちが、私と同じように伊織さんにときめいていたことだけは間違いありません。ファンキーに2〜3年いた私はその後、サムタイムに移ることになりました。
 サムタイムでは何と初代店長ということで、ますます仕事が楽しく、たくさんの人たちと交流するのが刺激的でドラマチックで、おもしろくて仕方がないという毎日でした。
 いつしか伊織さんと私は…、などということはまったくなくて、伊織さんはいつも私を妹のように大切に扱ってくれました。お店が終わるとよく食事に連れていってくれて、食いしん坊の私に、あれこれご馳走してくれたものでした。
 ところで、カッコ良過ぎる人といいお付き合いを長くしたいというときは、こういうパターンもなかなかお薦めです。ヘタに色恋バージョンにもっていくと、意外とあっけない幕切れに終わってしまい、必ずしもいい思い出が残るとは限らないからです。
 伊織さんがカッコ良過ぎたおかげで、最期までいいお友達でいられた私でした。感謝!




ニューポートの思い出  中平穂積(JAZZBAR DUGオーナー・JAZZ写真家)

 伊織さんとは、昨年2月10日に元気に一杯やったのが最期になってしまった。未だに亡くなってしまったなんて信じたくない。伊織さんとは1966年、彼も私も初めての海外旅行で、ニューポートジャズフェスティバルへ名古屋の内田修先生と3人で行ってからの付き合いだった。
 この年のニューポートジャズフェスティバルでは、ジョン・コルトレーンの出演があって、それがお目当てだった。コルトレーンのステージの後に、私が撮った写真と8ミリに(現在ビデオで発売中)伊織さんが写っているのだ。いつか機会があったらぜひ、伊織さんのファンの方たちには観ていただきたいと思う。
 その後。再びニューポートへ、そしてシカゴ、ニューヨークの旅を一緒にした。行き帰りの機内では、同行の鹿児島の悦ちゃんとトランプゲームをやって、2人ともさんざんカモられたのを懐かしく思い出す。
 伊織さんの父上はジャズ喫茶経営の大先輩で、最初は父上とのお付き合いだった。次第に伊織さんが仕事を受け継がれ、どんどん手を広げられたわけだが、私はずーと以前から伊織さんに仕事のし過ぎよ!と言い続けてきた。しかし、伊織さんはよく働き、さらに、野球、テニス、水泳、それに、カメラと遊ぶことも決して忘れてはいなかった。
 彼は58年間で、他の人間の一生分を働き、遊び、食べ、そして飲んだに違いない。ジャズ喫茶仲間の旅行やパーティーでも、伊織さんのまわりにはいつも笑いの渦ができ、彼と一緒にいるとつい飲まされてしまったものだった。
 伊織さんを偲んで仲間と一杯やりたいが…、今はそれもあまりにもむなしい。




育てて貰った  西川りゅうじん(マーケティングコンサルタント)

 野口伊織さんに最初にお会いしたのは、1982年頃だったと思います。「サムタイム」や「赤毛とソバカス」「アウトバック」「ファンキー」などのお店にうかがったのは、もう少し前の1980年でした。
 中央線国立駅の近くの大学に入学して神戸から出て来たばかりの私には、野口さんのお店は、東京そのものでした。とにかくどこもカッコ良かった。何もかもが輝いて見えました。
 野口さんのお店の持つ空気が大好きでした。店とスタッフと客が作り出す雰囲気が、ある時には心をときめかせ、ある時には心をなごませてくれました。ジャジーなサウンドとライティングに身を任せて、“無用の用だ”などと一人悦に入りながら酒をあおりながらボッーとしていたり、ロックやジャズのハードな音の海に沈澱してみたり。
 そんな中で知らず知らずの内に、バラバラになっていた自分が結晶して行き、何か確信のようなものを持てるようになって行きました。その結晶が、在学中から今のマーケティングや企画プロデュースの仕事を始める原石になったのだと思います。今の私を育んでくれたのは、野口さんのお店の持つ空気でした。
 野口さんのお店で育まれたのは、感性だけではありませんでした。恋愛には舞台も大切ですが、野口さんのお店のお陰で、たくさんではありませんでしたが、愛も育めました。心の中の青春アルバムを開けると、セピア色の数ページの写真の背景には、野口さんのお店が今も当時と変わらず写っています。
 もちろん、野口さんのお店には友情も育んでもらいました。店に誰もいなくなるまで激論したり、バカを言い合ったり、飲み過ぎて酔い潰れたり。その時の仲間達は、今、世界中、日本中にちらばっています。皆が一緒に集まることはもうないでしょうが、あの時の瞬間、瞬間は、皆の心の中で永遠です。
 ある日、「D-ray」だったと思いますが、深夜店に入ったら、床にヘンな男が倒れていて、「誰だ、この酔っ払いは?」って言っていたら、それが野口伊織さんだとわかったのは、後になってからでした。
 それから、雑誌の取材でお会いしたり、お店のオープンにお招き頂いたり、株式会社サムタイムと株式会社麦の店長会議に講師としてお招き頂いたり、「りゅうじん、おもしろい店があったら案内しろ」と声を掛けてもらい、奥様の満理子さんと一緒に様々な飲食店やBARなどをナイトクラビングしたりと、野口さんとのご縁が深まって行きました。
 野口伊織さんは、もうこの世にいないと言われても、まだ信じられません。また、いつもの調子で「りゅうじん、元気か?」と電話が掛かって来たり、メールが来たりするような気がします。きっと野口さんは、生きてるのだと思います。ちょっと旅に出たのでしょう。心の旅に。
 野口さんも野口さんのお店も、たとえ海外にいて訪れることができなくとも、今は別のお店に変わってしまっていて行けなくとも、そこに訪れた人達、一人一人の心の中で、生き続けています。
 西川りゅうじんという人間は、野口伊織さんと野口さんのプロデュースされたお店に、育んでもらったのだと思います。本当にありがとうございました。野口さんと野口さんのお店から頂いた心の結晶を胸に、いつか野口さんにほめてもらえるようないい仕事をして、野口さんのような本当の意味でカッコいい大人の男になれるように頑張りたいと思います。




宇宙の子の宮へ帰った伊織さんへ  本間 敬英・真美

伊織さんは飲・食・音の三大珍味を吟味し、演出するスペシャリストです。そして、豪放・豪快にして、常に先を読み、斬新奇抜なアイディアがいつも漲り、アブラギッシュにエネルギシュに獲物(店造りのこと)を追う姿に、私も皆さんも同様に惑わされ、魅せられたのではないでしょうか。
基本を大切に、しかしそこにとらわれず「ザックバランに自由形」これは伊織さんから数多く教わった中の商売のキーポイントです。
果敢に突き進む姿の奥には、驚くほどに繊細に考え込まれたところからの、大胆な発想と動物的な勘と洞察力、自然と吉祥寺の街と人を包み込んで遊ばせてくれて、次々と若者を大人にしてくれた人。天空海闊の広大な心で、お店と人を愛していたのではないでしょうか。
ティーンエイジからシルバーエイジまで広く愛し、愛された人。
永劫に愛し続けられる人、それが私達の伊織さんです。

私達二人も皆様と同様に、伊織さんからは数知れない経験をさせていただきました。私は食味酒処MARUで、妻はライブハウスSOMETIMEで、共に店長をさせていただきながら、伊織さんのノウハウを教えていただきました。伊織さんのパワーに負けじと、20代の私達の有り余るパワーを、MARUとSOMETIMEを通して会社に捧げました。
その当時は猪突猛進の勢いあまり、社長とはよくぶつかり、よく語り、よく酒を飲み、よく泣き、よくキスもし(これは男の私だけ?!)熱い毎日を送っていました。その頃社長は40代で、気がつけば今の私達もその年になっております。
振り返ってみると、ものすごくハチャメチャパワーを出し切って、何事にも真剣に取り組む人でした。私達同様に若い社員のその殆どは、そのパワーに引きずり込まれ、一味同心の堅固たる心で従事してきたと思います。

会社を退社した後、井の頭通り沿いの元「西洋乞食」を、昌子さんから譲り受け、「亜茶羅香」と言うお店を持つことが出来ました。
沢山の良きお客様に恵まれ、その間も社長には陰から暖かく見守っていただき、時には良きアドバイスも頂戴し、いつも私達二人を励まして下さいました。多くの方々のお力添えもありましたが、私達二人にとって伊織さん・満理子さんが、いつも心の支えとなって人生の先輩として私達を育てて下さいました。

家の事情により、私達が東京を離れる‘98年春、大雪の日東京での最後の会食を、伊織さんと満理子さん・高梨夫妻と共に過ごし、心から私達の旅立ちを応援してくれたことを、今でもつい昨日の事の様に忘れることが出来ません。

縁とは不思議なもの・・・今の私達があるのも、親友の高梨夫妻との出逢いも、多くの友人や仲間達も全て伊織さんとの縁で、味わい深い濃厚なサムタイム時代を過ごさせていただいたことにより、生じたものだと思うと同時に、何よりの私達の財産になっております。

近い将来私達二人が腰を据えた頃、都会の疲れを癒しにご夫婦でゆっくりと淡路島に来ていただきたく思っていたのに、あまりにも早すぎる天命。
伊織ワールドにパワーを沢山注ぎ込み、そのパワーをみんなが少しずつ分けてもらっても、相当なエネルギー量になるでしょう。伊織さんのことが好きな私達、周りのみんながそのパワーを残らずもらってしまったのか?吸い取ってしまったのか?どうしてもっと小出しに出来なかったのか・・・
そんな思いや様々な思い出が、お別れの日から暫くは駆けめぐり、悔やむとか悲しむとか、この無常を受け入れたくありませんでした。みんなが誰しもが苦しみ、悲しんだでしょう。でも、いつまでも私達が悲しんでいても伊織さんは喜びません。伊織さんのパワーを少しでも感じとった人ならば、それぞれの生きる立場は違っても、適所に応じてFUNKYに活躍する事と思います。

私達も伊織ワールドのスタッフだったことに、自信と誇りを持っております。イオリズムの直弟子として、教えられた一句一動を思い出し、今まで以上これからの人生に生かせていきたいと思います。
なぜならいつまでも私達の心には、生死を超越した伊織さんの精神が宿っているからです。
伊織さんのように大きな影響を与えてくれた人は、これからも現れないでしょう。そして、宇宙のどこかでしっかりと見守ってくれていることと思います。心から感謝の意を表し、ご冥福をお祈りいたします。
                             合掌




愛する兄貴  茂串邦明(イントロ店主)

俺の、愛する兄貴が、死んだ。兄は2人いる。ひとりは血縁の兄、51歳。心臓にペースメーカーが入っているが元気。高校生の俺に、最初にジャズを聴かせた。感謝してる。
もう一人の兄が、野口伊織兄。脳腫瘍で闘病1年2ヶ月、奥さんの満理子さんや、周囲の懸命な看病も及ばず、4月22日朝、58歳で逝った。血はつながっていなくても、血縁以上の弟分として、俺は可愛がってもらった。伊織兄は吉祥寺を中心に、17軒の飲食店を経営。レストランバーや和食店、ケーキ屋と、多彩だが、彼の原点はファンキー、サムタイム、アウトバックといったジャズの店だ。ジャズファンには、お馴染みだろう。
特にサムタイムは、伊織兄が、建築中に、寝泊まりまでして、入れ込んで作り上げた店。斬新な内装デザインは、当時、建築界にも新風を巻き起こした。今日でも真の名店として、絶大な評価と人気を誇る。1975年8月、サムタイム誕生の翌月に、俺はイントロを開業。右も左もわからん俺に、やくざの撃退法から、強者揃いのジャズ喫茶の親父連との付き合い方まで、親身になって教えてくれた。おかげでイントロもまだ健在。
他店研究と称して一緒に店巡り、飲み歩いた。旅行にも行った。NY珍道中は最高の思い出。格好イイのに楽しい兄貴だった。飲み会があっても、伊織兄がいるといないじゃ、盛り上がりが全然違う。居る人皆を、ハッピーにしてしまう魔力を持っていた。
お通夜には、寺のお堂の棺の前に、吉祥寺のみこし仲間や、ジャズ仲間が大勢集結した。飲めや、踊れや、ジャズれや...伊織兄が好きだった、超盛り上がり大会だ。空いたすし桶にビールを入れて、全員、踊りながらイッキの廻し飲み。そりゃそりゃ!の掛け声に合わせて、俺は祭太鼓のように、力一杯ドラムを叩く。こんなに悲しくも光栄なドラマーは、世界中に俺しかいない。ワイワイ馬鹿っ騒ぎしてても、みんなの目には本物の涙が光っていた。愛する兄貴は、俺達の心に永遠に生き続ける。

スイングジャーナル誌2001年6月号より、野口伊織氏追悼文




「パリ」Wベッドでの4夜  吉本 繁樹 (吉本デザイン事務所)

野口さんは特別なクライアントでした。「マル」「Out Back」「CAPPER」「DUEX LIMONS」「蔵」「猿楽町Bar&Grill」「西洋乞食」「LEMON DROP」どの仕事も、緊張したり、興奮したり、対立したり、感心したり、ほんとうにいろいろな事がありました。
満里子さんのことばを借りれば「何よりも店づくりが大好きで、仕事が真剣な遊びだった」その野口さんとの共同仕業です それは非常事態のようなありさまでした。毎日電話があり、3日に1度は事務所にやって来る,なんてこともありました。
あんなに事務所へ足を運んでくれたクライアントは野口さんだけですよ。期待の大きさはプレッシャーでもありましたが、すごくうれしかったです。そして、いつも大切なことに気付かせてもらいました。
打合わせの後は、よく呑みましたね、むりやり音楽やら別の話題になるんですが、すぐに仕事の話に戻ってしまう。僕のことを批判しても必ず最後には「おれたち似てるんだよナァ」なんで嬉しいことを言って気遣ってくれました。
ホモにまちがえられながらのパリ旅行も思い出します。せっかくの旅行 お互いに感想やら計画など、いつでも話し合えるようにとツインルームを予約したつもりの野口さん 間違えてダブルを頼んでしまっていたらしく、ホテルに着いてあわてましたね。 折りしもパリ・コレの最中、どこのホテルもいっぱいで、しかたなくダブルの部屋に4泊しました。
そもそも、あの旅行は「西洋乞食」の設計のために連れていってもらったんですよね。それなのにあまり関係のない路地の写真ばかり撮っていると「どの部分が今度の店に生かされるの?」と不満気に言ってましたね。だいじょうぶです。あれから9年たって野口さんの親友の茂串さんの店にしっかりと生かされています。おまけに改装してから売り上げが倍になったそうですよ・…「おいおい おい ちょっとまってくれよ それはないだろ…・旅費を返しでもらわなくっちゃ」なんていって苦笑している顔が目にうかびます。とにかく いつも真剣で全力投球の野口さんに、たくさんのものをいただきました。最高に楽しく仕事をさせていただきました。感謝してもしきれません。ほんとうにほんとうにありがとうございました。
残念でたまりませんがご冥福を心よりお祈り申し上げます。

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