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追悼文集 (かたつむり走友会)

千石百合子
伊織さんはいつも胸に重いカメラをつけて山に登りました。登るだけで精一杯の山登り、その途中で写真をとるのです。登りが険しいほど撮影意欲が湧いたようです。
 おかげで同行の私たちは、あたかもロッククライマーのような素敵な写真を撮ってもらいました。
若月幸恵
伊織さんのモノクロの写真が大好きです。
特に気に入っているのは奥穂高岳山行のもので、こちらの愉しさを引き出してくれている晴れ晴れとした写真です。
武藤雅子
伊織さんとは同い年。(残念ながら私は早や生まれで1年上)雅子ちゃんと呼ばれると勝手に竹馬の友と錯覚しておりました、やっと還暦の会をしてもらう番になったのにきっと還暦という古い言葉が嫌だったのでしょう。たけのこの会での大根発言はたのしいジョウクでした。永遠に伊織星のうえでステキに輝いていてください。
(注,武藤さんのお宅では、毎年春に京都から取り寄せたおいしい筍をさまざまに料理して,ご馳走になるのが恒例です。ある年,とりわけやわらかくておいしい筍を一口たべた伊織さん「え!!これ大根・・」その発言に,一瞬皆、沈黙そして大爆笑。)

井上晴美
食事に行かない?呑みに行こうよ!
気軽に声をかけてくれた
心の温かい伊織さん今日も街で会いそうな気がします
小西美恵子伊織さんとの永久の別れを惜しむ心を無理にでも断ち切らんとしてかのようにカーン打ち鳴らされた鼓の音が次第にその間隔をせばめ、カッカッカッとと心臓の鼓動に近くなった時、伊織さんを乗せた黒い車は、大勢の黒い洋服の人たちを境内に残して彼の地へと旅立ちました。そこに佇んでいる人々の誰しもの胸に伊織さんとの多くの思い出が去来したことでしょう。
私も走馬灯のようにあの時、この場面と脳裏に浮かんできました。この歳までには多くの人との出会いがもたらされますが、伊織さんとは他の人にはなかった面白い付き合いでした。年は彼のほうが下なのに、なぜかお兄さんのようにお世話になることが多く、ある時、あのビンテージの高級な車で息子の学校まで送って頂いたり、吉祥寺で数人以上の集まりの際は必ずお店の予約を取って貰い、彼からの心のこもった差し入れを楽しませていただきました。
趣味の写真も沢山撮っていただきました。ジョキングの折々、かたつむりのお花見、宴会の様子、山歩きのとき、花の展示会を催したとき、白黒の写真は、伊織さん撮影そして、現像のものです。お正月の深大寺まいりの記念写真はメンバーのお嬢さんの成長ぶりで、いつの年だがわかるのも毎年撮って下さったお陰です。
岩崎映子
偉大な業績の持主を老若男女問わず伊織さんと呼んでお付き合いさせて頂いたそんな男性もめずらしいと思います。飾らず奢らず優しく三拍子揃ったお人柄の故でしょう。
そんな伊織さんと接点を持てた事を誇りに思い、今感謝しています。
岩崎智子
いつもダンディな伊織さんは、私の理想、憧れの男性でした。伊織さんのように仕事、遊び、何事もパーフェクトにこなしてしまうような‘究極の男性’には、そう簡単には巡り会えるものではありません。そのような方とお付き合い頂けたことは、私の喜びでありました。伊織さんのような人を求め続けているが為に、私は未だお嫁に行けず終いです。

牧田慶子

五日市街道・境橋の交差点で「牧田さーん」と呼ばれました、声の方をみるとちょっとよれたTシャツに短パンの伊織さんではないですか。コンビニにお買い物という感じ、いつものダンディな伊織さんの姿ではなかったんです。<あ!普通のおじさんじゃない>と思い、すごく嬉しくなりました。お会いするたびいつも楽しくさせて頂きました。お別れの日にも30年振りの友との再会。最後まで喜ばして下さり、ありがとうございました。

吉田浩子
30年ほど前、初期の‘ファンキー’でジャズに浸っていました。その後オーナーの伊織さんとスポーツクラブでジョギング・山登り・おりおりの宴にご一緒することとなりました。気取らず温かい雰囲気で集まりを和ませて下すってありがとうと感謝しています。
伊織さんはかたつむりの タカラ です。




また、会いましょう   相原節子

 誰からも、愛される人。そんな人、いるの?
ところが、居たのです。それが、私の知っている、野口伊織さん。でも本人は、気が付いて、いないようでした。

端正な顔立ち、お洒落でスポーツマン、音楽家で、おまけに実業家とくれば、普通、同性にとっては、ちょっと「いやみ」な存在かも。ところが、男性の中でも、超人気者。私の周りには、彼の、ファンばかり。

その理由は、憎めない人柄なのです。考えられないような、失敗談。いくつか楽しませてもらい、皆で、よく笑いました。今は、寂しいかぎりです。

あるとき、彼が、私に言いました。「怒るのあたりまえだよね。ぶつけた車も、ぶつけられた車も、俺の車だよ。」 車庫入れする時、満理子夫人が運転し、隣に駐車してある伊織さんの車に、ぶつけたと言うわけです。自宅の車庫での出来事。笑った、笑った、あの時も、大笑い。彼が話すと、なぜか困ったことも、笑いの種になるのです。満理子さんは?車から、すっ飛び出て、土下座し、すぐ仲直りした二人とか。

アッこれは、満理子さんの方の失敗でしたね。 そう、二人は、よく似ているのです。 最近気が付きました。美男、美女、才能あり、思いっきりがよく、あわてもの、など、など。

野口伊織記念館、開設、大変嬉しく思います。時々、ホームページを開いては、写真に、話しかけています。いろいろな思いが甦り、でも、気持ちは、癒されます。ページを立ち上げてくれた人に、心から、感謝。有難う御座いました。

伊織さん、また皆で、会いましょう。




伊織さんの天敵  池部 誠

同じNAS吉祥寺の会員でも彼はマラソン、私は水泳で、時間帯も違うから、顔を会わすことはほとんどなかったが、ある年の忘年会で何がきっかけだったか、会場で取っ組み合いをしたのが、知り合うきっかけだった。じゅうたんの敷かれたホテルのロビーでの組み合いは場違いでホテルの人に注意されないか、気になったことを覚えている。結果は筋肉に恵まれている私の勝利で終わった。
 その後、彼はジムでバーベルなどやって筋肉を鍛えたらしく、1ヶ月後に挑戦してきた。後で判ったことだが、負けずぎらいと子供っぽさは彼の特徴らしい。しかし、彼の才能はマラソンにあって、1ヶ月のトレーニングでは大して腕力は向上しなかったようだ。同じ結果が待っていた。彼はその後もトレーニングを積んでいたようで、度々挑戦され、我々はその後も何度か組みあった。大多数、特に女性軍は圧倒的に野口応援組だったように思える。以後私は「伊織さんの天敵」あるいは単に「天敵」と呼ばれるようになった。
しかし、私は「どうしてグレコローマンレスリングをやらなかったんですか、日本を代表するレスラーになれたのに」とジムのインストラクターに言われた身だ。悪役を存分に務めた。とうとう、彼はギブアップし、私が挑発しても参った、ご免ご免、と受けなくなったが、どうしてそんな筋肉があるんだ、と本気で口惜しがっていた。
ところで、本職のマラソンはなかなか速く、井の頭公園の池の周りを6分台で走っていた。5分台だったかしれない。私は10分を切るくらいだったから雲の上の人だった。例によって一時会員だった増田明美さんに挑戦したこともあったが、とても歯がたたなかった。
少しは知っていたつもりの彼の人気が想像以上であることに気づいたのは病気になってからだ。敬愛されていたというほうが正しいかもしれない。かたつむり走友会のメンバーが何人も愛情溢れる文を書いているが、書いていない人も何人もいる。その人々が決して無関心というわけではない。それどころか、溢れる感情をうまく表現するすべを知らない、あるいは秘めていたいという理由らしい。ただ、悲しい、それだけだ、といった人がいたが、骨を食べてしまいたいという人までいた。なんであいつが親しいんだと嫉妬する人間も私は知っている。
私のもうひとつの思い出は彼の店であるOUTBACKにまつわるものだ。ある日、OUTBACK とはどういう意味か知っているか、と取っ組み合いに勝ってガキ大将となった私は店主に向かって偉そうな口をきいた。彼は「おお、言ってみろよ」と応じた。
私はオーストラリアのアウトバック(奥地)をど真ん中のアリススプリングスから西端パースまで四輪駆動車で走ったことがある。季節はイージートウダイ(簡単に死ぬよ)と言われる真夏でそれを自慢したかったのだが、それを話す前に他の誰かが会話に割り込んできて中断してしまい、それ以後は機会がなかった。彼にどんな経験や思いがあって名付けたのか。いずれ聞いてみたいと思っていて、同じ年の生まれだったから話す時間はたっぷりあると思っていたが、それは許されなかった。




“レモンドロップの函が恥づかしい”  稲森 慎二

もうずい分前の話ではある。
 その日曜日も、原則十時スタート、『井の頭マラソン』と云う名前で始まった『かたつむり』のメンバーによるジョギングを済ませた帰りの事でありました。
 何時もその帰り道、十人足らずが公園の近くの『武蔵野珈琲』に立ち寄ります。コーヒーの数倍の水も飲んで小一時間、美事な会話の飛び交うサロンが展開されました。常連で、アスレチック・クラブの所長さんだった若月のお姉さんが云ったものです。
「面白いよね『かたつむり』は。普通ジョギングの会と云えば、終わってから集まってしゃべると云う事はよくある事だけど、定まって、今日は早かったの、遅かったの、お前の足の上げ方はどうの、手の振り方がどうの、そんな事ばっかりなのに、『かたつむり』ときちゃあ、ここでそんな話一度も出た試しが無いじゃない。いいねえ吉祥寺は、楽しいねえ」
と。
 ではどんな話に花を咲かせたって、まあびっくりするような高尚な話から、「チョット チョット」と釘をさすような話まで、このメンバーが矢継ぎ早に反応する会話は、会社の同僚や、学校の友達の話とは一味も二味も違う誠にユニークなものでありました。私達は走る事と共に、この時間を本当に大切にしていました。今考えると、その中には自ら夫々持ち味の違った役者が揃っていて、その中の一人に伊織さんが居りました。
 前置きが長くなってしまいましたが、その日のサロンをお開きにして、三三五五おしゃべりをしながら歩いている時でした。若月さんが急に声をかけました。
「伊織ちゃん 伊織ちゃん ホラホラあすこ、レモンドロップの函をさげたお嬢さんが歩いてるよ。すごいねえ、この頃、あの函ブラさげて歩くのが吉祥寺のファッションの一つになったじゃあない。」
「エ 何処 何処」
と彼は眼を光らせた。眞黄色の地に、手の平を広げた黒ンボのデザインは中々のものです。それを見つけた途端彼は「オレ恥づかしい」と声を落としてつぶやきました。
「エー 何だって、恥づかしいだって」と彼女は驚いたように振り返りました。それを耳にした周りの面々も、パンパンと即攻を与えましたが、彼は唯黙っていました。私も眉をひそめた彼の眞顔を眺めて、一瞬不思議な気分にさそわれながらも、フト気がつくと、時にそんな態度を見せる彼の孤独な一面に、私は同感と彼の魅力を感じていたものだと思います。
暫らくたって彼と話をする機会に、はっきりこうと解かっていた訳でもないのに、「伊織さん、この間の“レモンドロップの函が恥づかしい”テ云ったよね。オレもあれ解かるよ」と云いました。
彼は真面目に開き直って、「ホントー 解かってくれる。オレあの時、本当に恥づかしいと思った」と答えて、彼が稀に見せることがある、彼には怒られそうだが、瞑想的な眼差しを遠くの方に差し向けました。
 そう云えば、同じような事がもう一度あった事を思い出しました。
 これよりずっと前の事、彼の新しいお店の開店祝に、『かたつむり』の面々が招かれました。年の功で会長と云う事になっている私が、お祝いの一寸した挨拶をした時です。何のお世辞や、誇張とも考えず、私は思っていた通り、「吉祥寺文化のパイオニア」と云う言葉を使うと、すかさず「会長 会長 吉祥寺文化なんてよしてよ、オレ恥づかしい」と横槍を入れました。
 彼の仕事の展開が、吉祥寺の町の発展と並行して進められた事は事実です。そして唯売らんがため、目立たんがためのそれとは凡そ正反対であった事も間違いありません。飽くまでもひたむきに自分を追い求め、自分の好むもの、その展開に終始したと私は思います。そしてそれを育む土壌が吉祥寺にはあったと思います。

 この所、彼は亡くなってしまったのだなと思う度に、彼と私とは一体何だったのだろうとの思いにさそわれて、その時改めて、彼の「恥づかしい」は彼と私の間の絆みたいに思われて来ると共に、一体それはどう云う事なのかと少々穿さく的な自分に気がついていました。
 この間のことです。私はテレビの「徹子の部屋」を何気なく観ていて、中村雅俊の話振りの中に伊織さんを見出してハッとしました。そして急に目頭が熱くなりました。彼の話を聞いている中に、一寸したヒントがありました。
「本当の自分テ 中々皆からは見えないんですね。でもいいんです。自分だけに向かってコツコツやって行くしかないんです」と云うような発言だった。私も全く同感で、今迄名前だけしか知らなかった彼に好感を抱きました。そして何かの機会に、パッとスポットライトが当たった時、当然得意満面、どんなもんだいと反っくり返ったとしても、それはそれで一寸もおかしくなんかないが、この人はきっとそれが出来ずに、恥づかしそうにニヤニヤ下を向いてモジモジしてるだろうな、私もそうだし、伊織さんもきっとその手だな、それに違いないと思い当たったのです。
「解かるよ」「解かってくれる」この遣り取りの意味は、云ってみればこんな事だったのではないかしら、お門違いだろうか、伊織さん。
 それにしても、『かたつむり』は、大きな穴が開いてしまって、一寸困ってしまった。 (2001.7.25)




イオリさん 遭難するの巻  小川 江一

 北アルプス連峰の盟主、奥穂高岳(標高3190メートル)への山行が決った。
 1992年8月、かたつむりの仲間としては、前年の西穂高岳につづく、2度目の山行である。一行は男性4名、女性3名、計7名である。このなかに当然イオリさんもいた。
 1日目は上高地から梓川に沿って横尾まで行き、そこで槍ヶ岳への道と別れ、横尾谷を経て涸沢へと入る。涸沢小屋には午後の比較的早い時刻に着き、小屋のベランダで、奥穂高、前穂高、北穂高に囲まれた圏谷の中で、ビールやワインなどを飲みながら、至福の時を過ごしていた。その時、イオリさんがなにげなく、「明日はもう帰るのか」とつぶやいた。他の6人は思わず顔を見合わせる。予定では、2日目は涸沢小屋から奥穂高を往復し、3日目に往路と同じ道を戻り、上高地へ下ることになっていた。
 事前に何回かの打合せもしていたし、山行の予定表も渡してあった。予定表を見ていなかったのか、それともころっと忘れてしまったのか。明後日には、欠かせない約束があり明日中には是非帰りたいということである。イオリさんだけを涸沢から帰して、6人で登頂というわけにはいかない。相談の結果、ややきつい行程になるが、明日は、全員で奥穂高に登り、そのまま前穂高への道でもある吊尾根を経て、岳沢を下り、上高地へというコースをとることになった。イオリさんは、その日のうちに東京へ帰り、残りの人たちは上高地泊りということになる。
 2日目も好天に恵まれ、順調に行程をこなしていった。あまり調子が良過ぎたので、欲が出て、予定外の前穂高にも登りたいという人が現れた。往復1時間かかる。上高地までは、まだ長い下りがあるのだが、折角ここまで来たのだからということで、結局全員が前穂高に登ることになる。
 いよいよ岳沢の下りである。岳沢というのは、上高地から奥穂高を見上げた時に、正面に見える扇状の大きな谷である。岳沢ヒュッテまで3時間、さらに上高地まで2時間ほどはかかる。岳沢上部は1本の木もなく、真夏の太陽に照らされ、しかも無風、熱せられた鍋の中を歩くようで、思った以上に消耗が激しい。その時になって、前穂高への往復が悔まれてくる。
 漸く、岳沢ヒュッテに着いて一息ついたが、余程バテたのか、上高地に泊るなら、このヒュッテに泊っても同じではないかという声が出てくる。イオリさんも、ここからなら、早朝に発てば、午前中になんとか東京に着けそうだとこの案に賛成する。まだ陽は高く、2時間も歩けば上高地に下りられるが、他の人たちもいささか暑さにバテ気味だったせいか衆議一決、岳沢ヒュッテ泊りになる。ここからは眼下に梓川や上高地の建物なども指呼の間にあり、道も一本道であり、イオリさんひとりでも迷うことはあるまい。と、その時には思った。
 翌朝、皆んなが寝ている暗いうちに、イオリさんは出発した。
 以下は、イオリさんの後日談である。
 ヒュッテを出て、暗い山道を懐中電灯を頼りに下って行くと、上高地へは対岸へという道標が出てきた。ここで道は岳沢を横切るのである。沢といっても、水はチョロチョロと流れているだけで、巨石のゴロゴロしている幅100メートル位の河原である。
 イオリさんは対岸というのは河原の真中のことだと考えて、沢を横切らずに、その真中を下って行った。しばらくしてから、どうも様子がおかしいことに気付く。確かめるために道標のところまで戻る。道標にはやはり対岸と書いてある。対岸とは河原の真中のことであると思い込んでいた彼は、再び河原を下る。下るほどに、当然のことながら道らしきものはなくなり、巨石の河原は、やがて潅木の茂みへと変り、周囲の様子も全く判らなくなってくる。心細くなり、遭難の二文字も頭をよぎる。茂みはだんだん濃くなってくる。「オーイ、オーイ、タスケテー」と大声で何回も叫んだが、この時間帯には、この辺りに登山者はまだいない。ただ、がむしゃらに下へ下へと向って行く。
 数十分後、漸く道らしいところにでっくわす。その時は、本当にうれしかったという。ヒュッテを出発してから5時間の苦闘であった。
「今度から、山へ行く時には、地図と磁石はいらないが、国語辞典を持って行く」というのが、彼の反省の弁であった。
 イオリさん、彼岸にうまく行けただろうか。




花火のように  木村 幸司(九坪)

 伊織チャンがまさに花火のように見事に咲いてパッと消えてしまってから、はや百日が過ぎた。  伊織ちゃんは皆様ご存知の如く、無類の花火男だから毎年長岡の花火に出かける。平成11年8月の花火は小生愚妻も含めて総勢8名(相原夫婦、丸山、柳原)にて出発した。現地にはかたつむり走友会新潟駐在員?の中村氏が居られる。そして、柳原同志のご尽力により桟敷にて鑑賞することができた。同夜は新潟市内に戻り、みなさまご想像の通り、ハチャメチャな宴会に至る。
 そして平成12年2月、伊織ちゃんの発病によりその年はやむなく中止となる。長岡が駄目なら東京にも花火はあるさとばかり、今度は西武遊園の花火に切り替える。伊織夫婦、相原節子さん、そして私ども計五人にていそいそと出発した。
 小生の握った手製むすび、愚妻の手作りそうざい、セッちゃんも飲み物、食べ物持参。さて伊織ちゃんの食欲はいかに? たまげた、たまげた、伊織ちゃんの食いっぷり、飲みっぷり。おにぎりパクパク、ジュースはグイグイ。 
 しからばと二度目の花火を計画。しかしながら、次回は伊織ちゃんの体調芳しからず、やむなく中止。これが伊織ちゃんと眺めた最後の花火になってしまった。
 今思い出しても懐かしく、ほろ苦い思い出である。伊織ちゃん、今年の花火は一段高いところから下に拡がる長岡の花火を一人静かに鑑賞しているのかな?
 伊織夫婦が毎度、酔眼朦朧として店のノレンをくぐってくる(小生の店が最後の関所になっている)。午前12時〜1時頃が多い。そして四人で深夜の宴会が始まる。時に苦言あり、アドバイスあり、女性の話あり。まさにカンカンガクガク。じつに有意義なる討論会が繰り広げられる。
 店で昼定食を始めた時には朝食を済ませているにもかかわらず(おそらく満腹状態)無理をしてでも食事を付き合ってくれる。この義理がたさ、伊織という男はそういう男である。酔ったときの伊織ちゃんの口ぐせは「パパ」。なぜか小生のことを木村のパパと呼ぶ。そして一言。お互いに頑張ろうね! お互いに身体を大切にしようね。
 深夜、店の前にMG、BMWアルピナのエンジン音が聞こえる。いらっしゃい、伊織ちゃん、マリちゃん、さあ今夜も深夜の討論会のはじまりだ。




  小西 美恵子

 食事に行かない?呑みに行こうよ!
気軽に声をかけてくれた
心の温かい伊織さん今日も街で会いそうな気がします




野口伊織さんを偲び槍ヶ岳へ  高橋 道春

 このところ吉祥寺周辺の飲み屋でよく、野口伊織君を偲ぶ会(ただの飲み会?)をしておりましたが、改めてあちら側で元気にやっている同君を偲びたいと、柳原秀吉・藤野邦夫・高橋道春・丸山常夫・若月幸恵(年齢順多分・略敬称)の五人で槍ヶ岳を登ることになりました。
実は7,8年前、パインクレスト・スポーツジムの仲間が集まり「どこか山へ行きたいなあ」と言うことになりましたが、その時、居合わせた野口伊織さんが「どうせ行くなら俺ハデな山がいいなあ」という発言があり、小川江一さんのもと槍ヶ岳へ行く事になりました。中房温泉から表銀座縦走路、東鎌尾根、槍ヶ岳へと最高の山歩きとなりましたが、その時参加の野口伊織さんは第一日目、中房温泉のイオウにあたり、体調を崩し、入山することなく残念ながら帰京しました。そしてその後、槍ヶ岳の山頂を踏むことなく、せっかちにもあちら側に住民票を移してしまいました。
そこで今年は同じコースで槍ヶ岳に登り、山頂で伊織さんに焼酎を奉げてこようと、槍ヶ岳登山隊が結成されました。この登山隊は年齢こそ、ものの見事に全員50歳代と統一されていますが、体調・体力・体重において全く統一性はなく、性格も、歩くスピードもバラバラと楽しくて又とんでもない登山隊でした?

8月30日(木) 中房温泉 到着 同温泉泊
野口伊織さんを偲び温泉三昧
8月31日(金) 中房温泉〜大天井岳 大天荘泊
中房温泉を出発するも雨具を着ても着なくてもよい位の小雨が降ったり止んだり。蒸し暑い。出発後2時間、丸山さんがしきりに足、膝の屈伸運動をする。発汗・体重により脚が悲鳴をあげ、痙攣を起こす。燕山荘にて食事。ここより表銀座縦走路はガスにて槍ヶ岳の展望全くなし。大天荘にてようやく晴れて、槍ヶ岳が見えて来た。
9月01日(土) 大天荘〜槍ヶ岳 槍ヶ岳山荘泊
大天井岳を出発。気持ちのよい快晴。槍が来い来いと招く。槍ヶ岳山荘に到着後、伊織さんの写真とそば焼酎を持って山頂へ。山頂の祠の下、岩の中に遺影を収め、焼酎を振舞う。

 

同日たまたま山荘にて槍ヶ岳の開祖、播隆上人の記念祭がありました。夕方、浄土宗の僧侶が袈裟、衣、草鞋姿で先頭にたち、槍の穂先へ登頂してゆき、さきほど伊織さん遺影を納めた、山頂の祠の前で念仏を唱えてくださいました。
おりから西方浄土、双六岳の後方にゆっくり夕日が沈み、振り返ると東方、常念岳の上には既にお月様がうっすらとほぼ満月の姿を現し、厳粛な雰囲気に、我われ四人?は思わず合掌し、野口伊織さんに何年か、何十年間後かは解りませんが、そちらの住人になったら、また一杯やりましょうと声を掛けて、ご冥福をお祈りいたしました。




真面目はネガティブだよ  増田 明美

 私に面と向かって「真面目はネガティブだよ」と言ったのは伊織さんだけ。それもマジな顔で。あの時はガ〜ンと頭を殴られる思いだったけど、それから私、少しずつ面白い人間になろうと努力した。でも、井の頭公園で「かたつむりの会」のメンバーと一緒に走った時、ムキになって私に挑んできた伊織さん見て、若くないのに・・・ネ。
「この人、スゴク負けず嫌いなんだ」と思い、自分だって真面目じゃんよ!と思った。ある日、いつになく暗い顔の伊織さんに会った。何かあったの?と満理子さんに尋ねたら、「前の会で(ある人に)言った一言を気にしているのよ」とのこと。後から聞いたら、その一言はたいしたことじゃないのに伊織さんったらかなり落ち込んでいた。
デリケートで負けず嫌いで真面目な伊織さん、もっと一緒に走りたかったよ。まだ私は伊織さん以上の素敵な人には出会ってないよ。伊織さんのお店にちょくちょく行くからね。




伊織さんは星になった  武藤 元昭

 この歳になると、人の死というものにはかなり鈍感になってくる。自分と同年輩の人である場合など諦めが先に立つ。伊織さんの告別式に臨む時も、式場へ向かう時はそんな感じであった。尤も、伊織さんの場合は実感が湧かないという方が正確だったかも知れない。しかし、式場でお焼香の列に並んでいる間、あれこれ思い出しているうちに、実に久しぶりに涙の出る思いを味わったのであった。
 大きい人であった。体も大きい方ではあったが、人間の大きい人であった。包容力の大きい人であった。夢の大きい人であった。
 私の今までの人生で出会った誰とも違う。似ている人を思い出すことが出来ない。伊織さんが参加された様々な会合に参加しようという場合、大抵の人が口にするのは「伊織さんは出る?」であった。少なくとも私の経験ではそうであった。どんな会でも、参加される限り伊織さんは中心であった。パインクレスト(NAS吉祥寺)の仲間で作っている会で、伊織さんが参加されていた会は、これから確実に寂しくなるであろう。求心力を弱めるだろう。そんな予感がする。
 伊織さんというと思い出されるという話は私にも沢山あるが、苦笑させられたのは、パインクレストがまだ家族的な雰囲気を持っていた頃出していた情報誌(名前は忘れた)に載った「かたつむり走行会」の紹介記事であった。紹介者は伊織さんで、実に楽しそうな様子が伝えられていたのであるが、中に「(メンバーの中には)大学教授の奥さんもいるんですよ」とあった。私の家内を指しているのであるが、実は「大学教授」もメンバーの一人なのであった。あまり熱心な参加者ではなかったので、伊織さんの眼中には入っていなかったのであろう。正直な人であった。
 伊織さんとの繋がりが最も強かったのは、私の場合テニスであった。三鷹のクラブのコートを借りて行うテニス会に伊織さんから誘って戴き、病気になられるまで何度かゲームを楽しんだ。数人の決ったメンバーが集まるのであったが、中心はやはり伊織さんであった。学生時代テニス部にいた私としては、テニスだけは伊織さんに負けたくなかったのであるが、伊織さんのテニスは一見不器用そうに見えてかなり基本に忠実で、しばしば打ち込まれた。テニススクールに通っておられたと伺ったが、素直に吸収出来ていたのであろう。そういうタイプは進歩が早い。もし病気に斃れず、この会が続いていたら、早晩私は歯が立たなくなっていたであろう。あの素直な吸収力と強靭な体力が具わっていたのであるから。しかし、思えばその強靭さへの過信が仇となってしまった。もうテニス会も開かれることはあるまい。
 満理子さんとの御結婚の際、私共夫婦はお祝に星をお贈りした。御夫婦の御希望通りお二人のイニシャルを取って命名し、協会に登録した。伊織さんはこの遊び心を喜んで下さった。しかし、まさかこんなに早くその星になってしまわれるとは思ってもみなかった。
今頃はどんな星になっておられるのだろうか。




There Will Never Be Another You  山口 剛

 ジャズのスタンダード・ナンバーにThere Will Never Be Another Youという曲がある。先日、ふらりとSOMETIMEに入ってテナー・サックスの山口真文の演奏を聴いているうちにこの曲を想い出した。伊織ちゃんの告別式で出棺の時に慶応のバンド仲間の山口真文がこの曲を吹いて送った。十年前の伊織ちゃんの結婚披露宴でも彼はこの曲を演奏した。その時はタキシード姿の新郎も演奏に加わり,プロに混じって嬉しそうにあまり上手くないサックスを一生懸命吹いていた。
新郎の選曲だと聞いた。陽気でハッピーな演奏だった。告別式の時のこの曲はあなたのような人は他にはいないというラブ・ソングの歌詞が心に浮かんで、一寸涙が出そうになった。彼はこういうジャズが本当は好きだったんだろうなと思った。お互いスタンダード・ナンバーを4ビートでオーソドックスに演じるジャズを聴いて育った年代だ。
 こんなことを書いたのも、実は野口伊織とジャズについてなにか書いて欲しいと頼まれたのに、考えてみると、いつも酒を飲んでの馬鹿話ばかりで楽しい思い出はいっぱいあるのに、彼とジャズのことを話した記憶がさっぱりないのに気がついたからだ。
学生時代から「ファンキー」や「マッキン・ルーム」に出入りしていた僕も六十を過ぎ、彼も似たような年、コルトレーンだアイラーだと口角泡をとばす年は遙か彼方に過ぎていた。でも、ジャズに限らず新しい音楽が好きで、新しいCDの情報など良く知っているのでいつも感心した。
 日本テレビの出版部にいた時、「吉祥寺ジャズ物語」という本をこしらえた。吉祥寺のジャズ喫茶の名物主人三人、野口(ファンキー)、寺島靖国(メグ)、大西米寛(A&F)がジャズについて書き,語るという本だ。
 寺島靖国は川崎長太郎が好きという文学書生くずれのご存じフォー・ビートおじさん、僕の幼友達でもある。伊織ちゃんはテニス、パソコン、美酒美肴のすきなモダンボーイで音楽の好みもロックからフュージョンまで幅広い。寺島と合うわけがない。お店を見れば良く判る。この二人は昔からの天敵なのだ。その昔のパラゴンvsオリンパス事件以来その因縁は深い。会えばにこやかに話をしているが、これほど趣味、世界観の違う男は居ない。ジャズ以前の問題なのである。
それに新興勢力の大西米寛がからむから面白かった。それぞれのジャズ観を披瀝して喧喧諤諤論じ合う座談会のコーナーで伊織ちゃんは、天敵寺島を向こうに回すことになった。なにしろ寺島靖国は、チャーリー・パーカーは駄目、ビリー・ホリデイはバツという独断的極論暴論を正当化することは自家薬療中のものだし、大西米寛はお喋りの大家で、超絶技巧のトランペッターのような喋りのためリッチー・ペラ大西と異名をとる位だ。
伊織ちゃんの正論は気の毒にも受け入れられない。口を尖らせて反論するのだが、相手は海千山千、結局、寺島と野口がお互いの意見に異をとなえ合っている争点の良く判らない変な座談会になってしまい、後で読んでみると実におかしい。編集者のためを慮ってあえて寺島に異を唱えて面白くしてくれたのかなと思ったりした。
 伊織ちゃんのことを思うと、本当に神に愛されて早逝したという気がする。
 流行のお店のオーナー、ハーフっぽいルックス、車はBMWアルピナ、美人の奥方、自宅の地下にはスタジオがある。女の子をお店に連れて行くとみんな素敵だ素敵だと騒ぐ。
 こういう男は本来好きになれないのだが、彼の場合は例外だった。信じられないような馬鹿げた失敗談でいつも座を盛り上げてくれる。だから、男の友達が多かった。
There Will Never Be Another Youである。




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