野口伊織は昭和36年4月、慶応高校から慶応義塾大学に進学するが、大学1年生の夏、高校時代に在籍していた「応援指導部」ブラスバンドの一年先輩立見さんの勧めで、高校時代のバンド仲間であり親友でもあった松野正孝などと共にKMPというジャズバンド部に運命的な入部を果たすことになる。
ここでは、彼のその後の人生に大きく影響を与えたKMPとの関わりについて、大学4年間を通じて関係深かった当時の先輩や仲間、後輩などとのエピソードを含め、当時の歴史をふり返りながら、その「運命的出会い」を探ってみたい。
【 第一章 KMPの黎明期 】
KMPとは?
KMPは、慶応義塾大学・文化団体連盟(大学が公認する学生による課外文化活動集団)(通称「文連」)に加盟するアコーディオン・クラブの中の5部門(シャンソン・タンゴ・クラシック・セミクラシック・ジャズ)のうち、ジャズ部門のメンバーが昭和36年春に独立し、ジャズ演奏を追求するため新たに創設した団体の名称で、Keio
Music Players―という、いとも単純な名前に由来する。この設立メンバーは前年の昭和35年入学組の吉田・尾藤・佐藤・中島・行田の5氏である。
ただしその昭和35年に、新入生メンバーだった佐藤・尾藤・中島(他に安斉・是永氏等が在籍)氏に加え、同年夏までに吉田・行田氏が加入し、秋の三田祭参加を果たしており、何とあの慶応義塾の伝統的なジャズ・バンド「ライト・ミュージック・ソサイエティー」の演奏のあとに、このKMPの前身「アコーディオン・クラブ・ジャズ部門」は、三田の518号教室に登場、観客の「大歓声!」というにはかなり遠い、「失笑」を買うという事件を既に巻き起こしていた。恥を忍んで当日の演奏曲目をご披露しよう。
・・「月影のキューバ」・・さぶー!< ←当代の現代用語辞典参照のこと
(その悔しさと伝統の負けじ魂、加えて、己を知らぬ鼻息の荒さが翌年の脱会の背景にあったのか。はたまた、後に野口も嵌ったKMP伝統の誇大妄想的文化が既にあったのか。)
野口伊織の参加(昭和36年夏)―KMPとの運命的出会いー
昭和36年4月、独立したマイナー集団のKMPにとって最初の試練は、ジャズ演奏経験
のある部員の確保であった。(当時はまだ経験者も少なく、楽器を持っていない部員さえいるという状況であった)オリエンテーションの結果、30名程度の入部希望者があったものの、最後に残ったのはたったの2名(渡邊―第2代の代表と佐合―テナーサックス)。
ところが、ここで大活躍するのが初代代表の吉田 碩さんであり、その中で何といっても圧巻が、その後のKMPを、現役時代は初代音楽責任者(コンサート・マスター…通称「コン・マス」)として、また卒業後も現役・OBの纏め役として今日まで導いたKMPの恩人、立見正弘さん、そして立見さんが半ば強引に引き込んだ野口伊織であった。そして現役時代、立見さんから2代目「コン・マス」を引き継いだ野口は、卒業後も我が子のようにKMPを思い、愛し、支え続けたのである。
これは二人にとって、そして今は亡き野口伊織にとっては、一生をかけたドラマの第2幕(第1幕が慶応高校時代とすれば)の幕開けであり、またKMP・・昭和36年から数えて平成13年で41周年を迎え、そしてその間、数え切れないほど多くの仲間や、感動を生み出した集団・・にとっても、まさに運命の出会いとしか言いようがない。吉田さんとこの二人無かりせばKMPの今日のサウンドは育たなかったし、それ以前に部活動として存続できなかったであろうことは間違いないのである。
思えばKMPにとって昭和36年(KMP元年)は、この二人の参加によって波に乗り、吉田さんを中心とした懸命な努力の結果、河北・加々尾・小堀・酒向さんなどの先輩諸氏や、同年秋の奥沢・室井(1年生)の入部もあり、部活動が本格始動する年とになった。
KMPの離陸(テーク・オフ)−ニューサウンド・オーケストラの誕生―
昭和36年秋、第1回KMP定期演奏会⇒翌37年春の慶応「山中湖山荘」合宿(ここで
バンド名として「ニューサウンド・オーケストラ」が決定)を経て、昭和37・38年度と40名以上の大量の新入部員を確保し、38年夏に栃木県那須温泉「童話荘」で本格的な全体合宿、その後栃木県大田原市において、KBR(タンゴ・アンサンブル)を迎えた、KMP初の地方コンサートを開催、1,600人の聴衆を魅了する。そして、この前後に、当年の渡邊代表が,本格的な司会専任部員として、伊丹賢太郎(卒業後NHKアナウンサーに)を引き入れ、音楽レベルの向上とともに、ステージ演出面での充実が図られることになった。
かくして同年10月には、悲願の、また粘り勝ちというべき「文連」への正式加盟を実現、名実ともに慶応大学を代表する第二のジャズ(+ラテン)・オーケストラとして産声をあげた。これを受けて早速対外的PR活動を積極化させ、翌昭和39年春休みには、既に初の演奏旅行に出る。考えて見れば、当時はまだ無名に近いKMPを招聘した各地の三田会(慶応OB会)にとって、それは大変な決断であったろうと思われたが、いざ蓋をあけてみれば結果は大成功、無事3週間の全行程をこなすことができた。
この頃から、KMPニューサウンド・オーケストラへの出演依頼が増加し、野口を含め、小編成コンボの活動も活発化し、KMPの第一期黄金時代を迎えることになったのだ。
初めての演奏旅行など・・
■ 当時、KMPニューサウンド・オーケストラは、まだデユーク・エリントン、カウント・べイシー、それにペレス・プラードなど、ジャズやラテンのポピュラー・ナンバーを中心に曲目を編成(クインシーやニ−ル・へフテイ−にたどりつくのはそのちょっと後)、その中でもリード・アルトサックス野口のソロは、会場の隅々まで響きわたる・・特に女性聴衆の心臓の奥まで突き刺すような・・甘く透明な音色(オーバーに言えば・・但し、後日届くファン・レターの数の多さとその熱い文面からみて、それはどうやら否定しきれない <もちろん他のソロ・プレーヤーにもファン・レターは来てましたよ・・外野の声>)、および立見コン・マスが醸し出す(曲によっては)見事なハーモニー、
そして軽快な伊丹の司会はやはり当時の売り物であった。
■第1回の演奏旅行日程(昭和39年3月)
月 日 開 催 地 出 演 ・ 競 演 グループ
3月12日(木) 静岡県静岡市 KMP・KBR(タンゴ・モダンシャックス)
(ゲスト)武井義明(ボーカル)
3月14日(土) 愛媛県松山市 KMP(単独)
3月17日(火) 高知県高知市 KMP・KBR(タンゴ・モダンシャックス)
3月20日(金) 広島県呉市 KMP・KBR(パールアイランダース)
早稲田大学ニューオルリンズ
3月22日(日) 鹿児島県鹿児島市 KMP・KBR(モダンシャックス)
3月24日(火) 佐賀県武雄市 KMP・KBR(モダンシャックス)
3月25日(水) 福岡県博多市 最初あったが、出発直前に中止
3月26日(木) 島根県松江市 KMP・KBR(タンゴ・モダンシャックス)
3月31日(火) 兵庫県神戸市 KMP・KBR(タンゴ・カルア)
■この初旅行のハイライトは、“参加者にしか分からない”「マック一味」と「チキン同盟」の生死をかけた(豆鉄砲による)一騎打ち。ついに佐賀県武雄駅構内では、真夜中の一騎打ちにたまらず駅員が出動・・(駅員)「一体何事ですか?」・・(KMP)「ごめんなさい」。(当時はまだ学生運動華やかな時代であったのである。そして、以来KMPにおけるサックス隊とラッパ隊の対決が続いており、双方にとって切磋琢磨の肥やしになった。)
■ 当時のKMP語録(排他的―実は一般常識の世界では通用しない)の例・・
―「なにせ(ペット/サックス)とはつきあえね−」
―「ゴグアグー!」、「デダ−!」、「ナニセ、ゴギゲン!」(なぜか福島弁)
―「エッ? エッ? エ−ッ?・・ヤバーーイ」、また「アーッ!」(鳥=チキンの声)
■KMP処世訓(昭和39年制作の会報第1号より)
−KMPはよく人をイビる。そしてイビられた者だけが残れる。
―月末には生活を賭けて上級生と(特に3年生)マージャンをせよ。絶対に勝てる。
―最初の合宿で先輩からつけられるニックネームを喜んで受け入れよ。一生モンだ。
―合宿には必ず参加し、夜の各種ゼミにも絶対参加すること。対応を間違えると必ず
夜の「布団蒸し」、または翌日の「ウサギとび」が待っていると思え。
―先輩を徹底してオダテよ。必ずオゴッてもらえるか、言うことを聞いてくれる。
いずれをとっても、なぜかそこに、しっかり野口伊織の存在感が感じられるのである。
【 第二章 思い出の数々 】
今回、高校時代を含め、彼と大学卒業を共に過ごしたKMPの仲間から、その人となりを知る上で貴重なエピソードや写真などがたくさん届いた。中にはこの際、どうしても一言いっておかねば・・というものもあり、厳選した上で、そのいくつかをご紹介し、おくる言葉とさせて頂きたい。
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